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2023-05-07

1903(明治36)年、早稲田大学野球部の“挑戦状”を慶應が受けたことで始まった「早慶戦」。当時からその白熱ぶりはすごく、06年からは両校の応援があまりにも過熱したことで中断したことも。

早慶戦を中心に盛り上がりを見せていた東京六大学野球リーグであるが、43年春から45年秋まで、戦争のために中断を余儀なくされる。

学生たちが次々に出征するころ、慶應の小泉信三塾長らの呼びかけで、「学徒出陣壮行早慶戦」、いわゆる「最後の早慶戦」が43年10月16日、戸塚球場で行われた。

結果は10-1で早稲田の勝利。試合後、スタンドの学生らは早稲田が「若き血」を、慶應が「紺碧の空」を歌うなどして戦地へ向かう学生らに餞(はなむけ)の歌を贈ったという。

そしてさらに時代は下り、60年。社会は岸信介内閣の日米安全保障条約改定への反対運動が激化する政治の季節。同年秋、早慶戦の盛り上がりは最高潮を迎える。「早慶6連戦」の始まりだ。

当時の早大主将の徳武定祐さん(84)は「これまでの六大学野球の中で最も光り輝いているのが早慶6連戦」と話す。

神宮球場には6日間で三十数万人の観客が押し寄せた。球場でスコアをつけていた、当時早大3年生の後藤讓さん(83)は、「老若男女、すべての世代に注目されていて、ベンチシートにぎゅうぎゅうに人が座っていました」と振り返る。

この年の秋季リーグは第7週終了時点で、慶應が8勝2敗、勝ち点4で首位、それを早稲田が7勝3敗、勝ち点3で追っていた。慶應が勝ち点をあげれば優勝、早稲田は連勝すれば逆転優勝、2勝1敗なら優勝決定戦という状況だった。

11月6日、熱戦の火ぶたが切って落とされる。初戦は2-1で早稲田の勝利。2回戦は慶應が意地を見せ、4-1でタイに持ち込む。命運は3回戦に託された。

この3回戦で事件が起きる。2-0で早稲田リードの九回表、1死三塁。早稲田の打者・野村の遊ゴロで三塁走者の徳武が本塁へ足を高く上げて滑り込み、慶應の捕手・大橋に激しく衝突。タイミングはアウトだったが、大橋のミットとボールが宙を舞い、早稲田の得点に。このプレーをきっかけに両軍がホームベース上でもみ合いになった。「球場は異様な雰囲気だった」と後藤さん。

翌12日、長きにわたった熾烈な戦いに終止符が打たれる。序盤のリードを守り切った早稲田が3-1で勝利、優勝を決めた。

「メンバーも良かったし、みんな一生懸命戦っていた。何で負けたかはわからないね。一球一球が戦局を左右する独特のムードがあった」と話すのは、6連戦の計4試合に登板した慶應の投手、清澤忠彦さん(85)だ。事前の予想では慶應有利だった。

「野球は人のやるものだから、計算どおりにはいかんよね。ただ強いて一つ挙げるとすれば、4人も投手がいたから『よし俺が最後までやったる!』という闘志が足りなかったのかもなあ」(清澤さん)

6連戦で早稲田の安藤元博氏は5試合完投49イニング、564球を投げていた。

その裏、三塁の守備についた徳武にミカンやリンゴが投げつけられるなど、場内は騒然となる。当事者である徳武さんはこう語る。

「このまま没収試合になるんじゃないか、というくらいの騒ぎだった。三塁側の前のほうの席に慶應の幼稚舎の子供たちがいて、その子たちに厳しく言われたのはさすがにこたえたね」

しかし、両監督がなだめ事態は収束。慶應の前田祐吉監督は三塁コーチスボックスに立ち、応援席をなだめた。徳武さんは前田氏の行動にいまでも感謝しているという。

「真っ先に出てきて、慶應側を制してくれた。あのときの前田さんの姿に、リーダーたるものこうあるべき、と思いました」

試合は3-0で早稲田が勝利。勝ち点、勝率で早慶が並び、勝負の行方は優勝決定戦へと持ち越された。

11月9日に行われた優勝決定戦。1-0の慶應リードで迎えた九回表、早稲田の攻撃。徳武さんは「いま思えばこれがドラマの始まりだったように思う」と話す。

1死走者なしで、代打・鈴木(悳)が三塁打を放つ。石黒も続き、同点に。そのまま試合は膠着(こうちゃく)状態が続き、延長11回引き分け再試合、早稲田は危機一髪で持ちこたえた。

■伝説の6連戦 騒然とする神宮
1日休養日を挟み、11日の優勝決定戦再試合は延長11回で両チームとも得点できず、またもや再試合に。この試合でも早稲田は首の皮一枚で優勝への望みをつなげていた。

延長十一回裏、無死満塁、慶應の打者は4番・渡海。浅いフライがライトに上がる。

「フライが上がった瞬間、『サヨナラ負けだ……』と思った。

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AERA2023/05/07 11:30
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