2023-05-13
文春オンライン 5/13
https://bunshun.jp/articles/-/62568
GWに久しぶりに実家に帰ったら、親が突然「ネット右翼」になっていた――。これは現代において、決して珍しくない事例である。ネット上でヘイト行為を繰り返して逮捕・裁判に及んでしまう人のほとんどが、50歳以上の「シニア右翼」なのだ。
2010年の6月に民主党政権内で鳩山由紀夫から菅直人に首班が交代し、翌2011年の3月11日、あの忌まわしい東日本大震災が起こった。このころの私はどうであったのかというと、前掲のチャンネル桜で週一のレギュラー番組を獲得してすっかり常連、レギュラーメンバーの一人となっていた。その都度のゲスト出演ならばともかく20代の出演者がレギュラーを持ったのは同局の歴史において初めてである。
3・11は保守界隈に奇妙な反応をもたらした。激震と津波により福島第一原発の電源が全部喪失し、原子炉が冷却できなくなるという未曽有の危機が一服してくると、保守界隈は口をそろえて原発護持を一斉に叫びだした。
福島原発事故の危機的状況が、即東日本壊滅とはならないようだと判明した2011年5月ごろから、保守界隈は沸き上がる原発反対・原発廃炉の世論の声を黙殺してまた「民主党政権打倒!」を叫ぶ通常運転に戻った。あれだけの国家的な原子力災害を経験したのに、原発政策に対しては金科玉条のごとく賛成・護持を貫いて、何の反省も無かった。
3.11から半年以上が経過した2011年冬、私はH君という熱心な視聴者に出会った。H君は視聴者として一方的に私を知っているという邂逅だった。どこの世界でも、どの業界でも例外がある。保守界隈はシニア右翼の老人ホームであると何度も書いてきたが、この界隈にも例外がありごくごく僅かに、若者という人々が熱心な視聴者として存在した。
H君は北陸地方の出身で、東京の準有名私大を卒業して、当時は東京都内でバイク屋を営む自営業者だった。当時私は28歳でH君は3歳くらい年上だったから31歳ぐらいだった。厳密には30を過ぎているので若者とは言えないが、この業界ではアラサーすら貴重なので完全な若者と言えた。
H君は勝手に私に親近感を持ち、「愛国の同志」として様々な右派集会を紹介してくれた。彼は櫻井よしこの主宰する国家基本問題研究所の青年部の人だった。国家基本問題研究所は通称、略して「国基研」と呼ばれ、保守界隈で厳然たる影響力を保持していた。当然だが櫻井よしこが保守界隈の中で抜群の知名度を持ち、様々なメディアに露出する有名人だったからだ。この青年部に来ないか来ないかとH君から再三再四督促があった。
■H君に誘われ、櫻井よしこが主宰する国基研の集会へ
2011年の暮、H君の催促で私は国基研の集会に行った。まずは様子を見てみようということだった。会場は都内の有名ホテルで、櫻井よしこと田久保忠衛の基調講演で満席だったが、その聴衆は頭髪が後退した老人ばかりだった。眩しいと瞬間私は思った。ホテルの天井からぶら下がっているステンドグラスのシャンデリアが、彼らの頭皮に反射するからそう思ったのだ。
国基研は、政治団体A=チャンネル桜とは、2022年の現在に至るまで距離を置いている。保守界隈には暗黙のアンシャン・レジームがあり、先行的に保守活動をしていたものが一段上で、後発、特にネットでその勢いを増長させている勢力に対しては、既存の保守勢力は露骨に嫌悪こそしないものの一等見下していた。
具体的にはフジサンケイグループの中にあって、創業者である鹿内信隆の肝煎りで刊行された雑誌『正論』と産経新聞社がその頂点に君臨する。戦後日本の保守論壇の中核をなしてきたのはこの『正論』と産経新聞社であることは論をまたない。
これを人によっては「正論路線」とか、「サンケイ・正論路線」等と呼ぶ。政治団体A=チャンネル桜は、これらフジサンケイグループに属する様々な人々からの個人的な感情による人的支援を受けてはいたものの、やはり総体としては1973年に創刊された伝統ある『正論』よりは一段格下と思われていた。
こうして私はH君の招きで初めて、政治団体A=チャンネル桜以外の保守界隈の大規模イベントに参加することになった。
雑誌『正論』といえば、一応大学図書館等にも常備されている定期刊行物だが、発行部数は書くまでもなく大勢力ではない。まず保守界隈の中での「斜陽的ブランド」といったところだろうか。この集会は『正論』の読者がほとんどで、日本の政治的右派の伝統的中核を担う人たちであった。彼らは全部シニアだった。
※以下出典先で
https://bunshun.jp/articles/-/62568
GWに久しぶりに実家に帰ったら、親が突然「ネット右翼」になっていた――。これは現代において、決して珍しくない事例である。ネット上でヘイト行為を繰り返して逮捕・裁判に及んでしまう人のほとんどが、50歳以上の「シニア右翼」なのだ。
2010年の6月に民主党政権内で鳩山由紀夫から菅直人に首班が交代し、翌2011年の3月11日、あの忌まわしい東日本大震災が起こった。このころの私はどうであったのかというと、前掲のチャンネル桜で週一のレギュラー番組を獲得してすっかり常連、レギュラーメンバーの一人となっていた。その都度のゲスト出演ならばともかく20代の出演者がレギュラーを持ったのは同局の歴史において初めてである。
3・11は保守界隈に奇妙な反応をもたらした。激震と津波により福島第一原発の電源が全部喪失し、原子炉が冷却できなくなるという未曽有の危機が一服してくると、保守界隈は口をそろえて原発護持を一斉に叫びだした。
福島原発事故の危機的状況が、即東日本壊滅とはならないようだと判明した2011年5月ごろから、保守界隈は沸き上がる原発反対・原発廃炉の世論の声を黙殺してまた「民主党政権打倒!」を叫ぶ通常運転に戻った。あれだけの国家的な原子力災害を経験したのに、原発政策に対しては金科玉条のごとく賛成・護持を貫いて、何の反省も無かった。
3.11から半年以上が経過した2011年冬、私はH君という熱心な視聴者に出会った。H君は視聴者として一方的に私を知っているという邂逅だった。どこの世界でも、どの業界でも例外がある。保守界隈はシニア右翼の老人ホームであると何度も書いてきたが、この界隈にも例外がありごくごく僅かに、若者という人々が熱心な視聴者として存在した。
H君は北陸地方の出身で、東京の準有名私大を卒業して、当時は東京都内でバイク屋を営む自営業者だった。当時私は28歳でH君は3歳くらい年上だったから31歳ぐらいだった。厳密には30を過ぎているので若者とは言えないが、この業界ではアラサーすら貴重なので完全な若者と言えた。
H君は勝手に私に親近感を持ち、「愛国の同志」として様々な右派集会を紹介してくれた。彼は櫻井よしこの主宰する国家基本問題研究所の青年部の人だった。国家基本問題研究所は通称、略して「国基研」と呼ばれ、保守界隈で厳然たる影響力を保持していた。当然だが櫻井よしこが保守界隈の中で抜群の知名度を持ち、様々なメディアに露出する有名人だったからだ。この青年部に来ないか来ないかとH君から再三再四督促があった。
■H君に誘われ、櫻井よしこが主宰する国基研の集会へ
2011年の暮、H君の催促で私は国基研の集会に行った。まずは様子を見てみようということだった。会場は都内の有名ホテルで、櫻井よしこと田久保忠衛の基調講演で満席だったが、その聴衆は頭髪が後退した老人ばかりだった。眩しいと瞬間私は思った。ホテルの天井からぶら下がっているステンドグラスのシャンデリアが、彼らの頭皮に反射するからそう思ったのだ。
国基研は、政治団体A=チャンネル桜とは、2022年の現在に至るまで距離を置いている。保守界隈には暗黙のアンシャン・レジームがあり、先行的に保守活動をしていたものが一段上で、後発、特にネットでその勢いを増長させている勢力に対しては、既存の保守勢力は露骨に嫌悪こそしないものの一等見下していた。
具体的にはフジサンケイグループの中にあって、創業者である鹿内信隆の肝煎りで刊行された雑誌『正論』と産経新聞社がその頂点に君臨する。戦後日本の保守論壇の中核をなしてきたのはこの『正論』と産経新聞社であることは論をまたない。
これを人によっては「正論路線」とか、「サンケイ・正論路線」等と呼ぶ。政治団体A=チャンネル桜は、これらフジサンケイグループに属する様々な人々からの個人的な感情による人的支援を受けてはいたものの、やはり総体としては1973年に創刊された伝統ある『正論』よりは一段格下と思われていた。
こうして私はH君の招きで初めて、政治団体A=チャンネル桜以外の保守界隈の大規模イベントに参加することになった。
雑誌『正論』といえば、一応大学図書館等にも常備されている定期刊行物だが、発行部数は書くまでもなく大勢力ではない。まず保守界隈の中での「斜陽的ブランド」といったところだろうか。この集会は『正論』の読者がほとんどで、日本の政治的右派の伝統的中核を担う人たちであった。彼らは全部シニアだった。
※以下出典先で